「神社・寺・パワースポット」カテゴリーアーカイブ

渦巻く気流が違うなぁ? 出雲大社!!

一年ぶりに出雲大社を訪れました。
大阪からでも道路の整備が進んで、車で4時間で来れるのは、とてもありがたい環境になったなぁ? と思います。出雲の国は、数多くの神話が伝えられています。また時間があれば、その地を訪れて、風を感じたいなぁ? と思います。

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菩提樹に取り込まれた仏頭に感動!! アユタヤ 2

こんにちは~ ♬
売り切る仕掛人 匠(たくちゃん)です。

またもや更新に時間がかかっちゃいました …… ( 〃..)ノ ハンセイ

でもこころはすっきり快晴!! またブログをアップしていきたいなぁ?と思っています。

マハタート4

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みたらし団子発祥の地 ? 下鴨神社御手洗社の話しでおま。

今日から、8月!!
この週末は、各地でかなり暑くなる予報が出ていますね。暑い日が続いていているので、暑さ対策をしっかりしたいものです。 こうやって、ブログの投稿記事を作成していても暑いので、今日は気分的に少し涼しくなる 「水」 の話しでも記しておこうと思います。

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画像は、京都の下鴨神社の井上社(別名 御手洗社)の前の御手洗川 の画像ですが・・・ 話しが初めからちょっとズレますが、

御手洗川って大好きな 「みたらし団子」 の発祥の地

とは、知らなかったでおま!! そのように川の横の説明書きの看板に、しっかり記載されていました。大好きなみたらし団子の話しは、、後ほどのお楽しみとして井上社の話しを少し記していきたいと思います。

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この社の前身は、「唐崎社」だそうです。賀茂斎院の御禊や解斎、関白賀茂詣の解除に参拝になった社だそうです
元の社地は、高野川と賀茂川の合流地東岸に鎮座のところ、文明の乱により1470年に焼亡したため、1592年〜96年に、この地に再興になり、1629年式年遷宮より官営神社になったそうです。

井上社と呼ばれるようになったのは、井戸の井筒の上に祀られたところからだそうです。

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社の奥をのぞいてみると、画像ではわかりにくいかもしれませんが、清水が湧き出ていました。ほんとうにきれいな清水で、川の水をすくってみましたが、めちゃくちゃ冷たかったです。
気温も、朝から30度を突破していましたので、気持ちよかったです。

土用の丑の日には、夏の風物詩で有名な 「足つけ神事」 が行われるようで、これだけ暑いと、足をつければ気持ちいいでしょうね。この神事は、源流に向かって足をつけると無病息災の霊験あらたかと言い伝えられているようです。

今年の土用の丑の日は、7月24日と8月5日の二回 あるので、二回楽しめるのかな? この日は、子どもさんを初め多くの人が、川の中に入ってお参りされるようです。この神事は、太秦の 「蚕の社 (かいこのやしろ)」 でも伝えられているようで、蚕の社からの影響ともみられる話もあるようです。
また立秋の前夜には、「矢取りの神事」 が行われるようで、「足つけの神事」 同様、有名なようです。

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さて見にくいと思いますが、画像の看板にも書かれているのですが、お参りさせていただいた時は、一番上の画像のように、川の水が、多く流れていたのでわからないのですが、看板の説明を読んでいると・・・

普段は、水が流れていないようなのですが? 土用が近づくとこんこんと水が湧き出てくるようで、「京の七不思議のひとつ」 とされているようです。

ここからが 「みたらし団子」 の話しですが、池底から自然に吹き上がる水泡をかたどったのが 「みたらし団子の発祥」 と伝えられているようです。
昔、後醍醐天皇が、下鴨の御手洗川で水をすくったところ、泡がひとつ浮き、間をおいて四つの泡が浮き上がったそうです。その泡にちなんで指頭大の団子を竹串の先にひとつ、そして間をおいて4つ続けて団子をさしたのがみたらし団子の起源であるそうです。
これを十串一束として、熊笹で扇形に包んだそうです。

「ほんまでおま?」

そんな伝え話があるようです。
みたらし団子が、初めて売られたのも、下鴨神社の前に広がる糺の森だそうです。森の中で、団子を食べたら、きっとおいしいだろうな!!
普段、スーパーなどで売られているみたらし団子を何気なく食べていますが、今度、行った時に、下鴨神社の近くにみたらし団子屋さんがあるようで楽しみたいと思います。

●京都グルメマップ 「加茂みたらし茶屋」 紹介ページ
http://www.kyotogmap.com/shop/0106_kamomitarasi/

京都は、お茶も有名ですが、やはりお茶は、水がおいしくないと楽しめないモノですから、このような水が湧き出るところを探してみれば、まだまだ知らない京都の顔がありそうですね。

暑い夏ですが、楽しみ!!
今日も長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

パワスポ社長_感謝

 


悪縁を切り、良縁を結ぶ安井金毘羅宮!!

台風11号・・・過ぎ去っていきましたが、あちらこちらで被害が出ているので、心配ですね。強風というより、雨の量が、半端なくすごかったですね。大阪では、市内をループして、便利なJR環状線が、午前中、止まっていたのには、驚きました。

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今週の週中に、京都に行ってきました。特に、最近、いろいろなことがあったので、こころをデトックス(浄化)することを目的としたスポットを中心にまわってきました。
まわったスポットのひとつが、パワースポットでも有名な 「安井金毘羅宮」 です。画像を見ていただいたら、わかるように、大きなコンクリートの鳥居に 「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」 という横断幕が、入口の鳥居に掲げられています。
鳥居をくぐれば、安井金毘羅宮の表参道で少し歩いていくと、境内に入っていきます。

この安井金毘羅宮は、元録8年(1695年)に太秦安井から安井門跡といわれた蓮華光院を移すとき、讃岐の金毘羅宮も 大物主神(おおものぬしのかみ) を守護神として勧請して、合わせて 崇徳天皇、 源頼政 も祀られた。その後、明治維新で蓮華光院は大覚寺に吸収され、宮社だけが残ったとされています。

境内に入っていくと、まったく知らない人は、「縁切り縁結びのくぐり碑(いし)」 が見えてくるので驚かれると思います。 このくぐり碑に、参拝された方の思いを記した神札がいっぱい貼ってあるのです。

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境内で様子をしばらく見ていると、くぐり碑の真ん中にある円形をくぐられている姿が目線に入ってきます。平日だったのですが、多くの方が、神札を書かれ、円形をくぐっては、石に貼り付けておられました。

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このくぐり碑は、主祭神の崇徳天皇自らが国家安泰を祈られ、もろもろ一切を断って祈願されたという故事に習い、江戸時代より断ちもの祈願のならわしが続けられ縁切り祈願が生まれてきたそうです。

旧きを脱皮し、常に新しい新鮮な自分を甦らせる縁切り、もろもろの祈願を成就にみちびく縁結び。

共に歓迎と説明されています。
これは神道本来の祓いに通じる道と書かれていました。
この悪縁を切る 「縁切り縁結びの碑」の神札に、上部からの亀裂をつたって神の力は中央の円形に注がれ、夫々願いを素直に記して、くぐり碑の円形に向かって、表から裏に(縁切り)、裏から表に(縁結び)のそれぞれこころに祈りを込めてくぐりぬけて、神札を石面に貼って下さいと説明されています。
神札は、すごい厚さで、貼ってあります。お参りされた方の思いが、これだけあるのも驚きです。
そういう私も、神札に書かせていただき、女性の参拝者ばかりなので、少々恥ずかしい思いをしましたが、円形をくぐらせていただきました。

夏は、石が焼けて暑いので、ご注意!!

何よりもありがたいのは、安井金毘羅宮では、毎朝拝時に、必ず、この碑にお祓いを行い、お清めをつづけていかれているので、悪縁を切って、良縁を結びたいというパワーが満ちているのかもしれません。

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まさに安井金毘羅宮は、私の今回の思いにぴったり!!
まずデトックス(浄化)して、新たな自分を構築したい。そんな思いを抱いて、訪れただけに、ありがたい思いをさせていただきました。

●安井金毘羅宮ホームページ
 http://www.yasui-konpiragu.or.jp/

今日も長々とお話しにお付き合いいただきありがとうございました。
パワスポ社長_感謝


京都祇園・建仁寺は、禅宗の発祥地って、ご存知ですか?

外は、台風11号の影響で、雨がすごく降っています。
さっきから雨がかなり降っていると思ったら、急にスマホから急傾斜の場所に家が建っておられる方は、避難準備して下さいなる緊急メッセージが届きました。これにはさすがに驚きました。

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話しは、今日のテーマの 「建仁寺」 の話しに戻ります。
この建仁寺は、栄西禅師によって、鎌倉時代の建仁2年 (1202年)に開かれた臨済宗建仁寺の大本山です。この建仁寺の寺名のいわれは、いたって簡単で、「建仁」 という元号の時代に創建されたので、元号をそのまま寺の名前にされたのが始まり で、建仁寺以前では、比叡山の延暦寺が、元号を寺名にされたケースで、延暦7年 (788年)に創建されたそうです。
栄西禅師は、日本に初めて禅をもたらした人であり、中国から茶種を持ち帰って、お茶を飲む習慣を広めた茶祖でもあるようです。

創建当時は、天台宗・密教・禅宗の三宗から学べるお寺だったようdせうが、正元元年(1259年) 南宋から渡来した禅僧・蘭渓道隆が11代目の住職として住持してからは禅の作法や規則が強化され、「禅宗の道場」 となったようです。

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入口の本坊から入っていって、拝観料を支払うと・・・

「寺の中、写真撮影すべてOKですので、ご自由にお取りください」

と言われました。通常は、拝観料を支払ってから、「ここから先は、撮影禁止です」 というのが普通なのですが、驚きました。
画像の有名な 「風神雷神図屏風」 は、入ってすぐの部屋にありました。外人の方も喜んで、風神雷神図屏風を背景に、家族で写真を撮ったりされていました。 この屏風は、俵屋宗達の最高傑作といわれています。もちろん本物ではなく、高精細複製画なので、撮影もOKなのでしょう。
また 海北友松筆・山水図襖 もレプリカなので、写真が撮れます。これは、こうやって、ブログを書いたりするものからすれば、記念にもなるし、ブログにも挿入できるので、うれしいことです。

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この襖絵の部屋の前には、きれいな枯山水の庭が広がっていて、しばらく座って、じっと見ていると、こころが穏やかに和んできます。

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そして法堂に行きます。建仁寺の法堂は、「粘華堂」 とも呼ばれています。この粘華堂のいわれは、「粘華微笑(ねんげみしょう)」 という禅語からきています。
「粘華」は花を一枚ひねる という意味で、「微笑」はにこりと笑う という意味だそうです。お釈迦様が、大衆に説法をしている時に、一輪の花をひねって、にこりと微笑まれたそうです。
大衆はその意味を理解できなかったのですが、お釈迦様の十大弟子の一人・摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意味を理解して、にこりと微笑みを返したそうです。
これは 「以心伝心」 を意味することで、言葉を使わずお互いが理解し合う。 仏法は言葉だけでなく、感覚的なものでお互いのこころとこころが理解しあって、初めて理解でき、伝わるということです。

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法堂には、本尊である釈迦如来様と脇侍に、お釈迦様の十大弟子のうち2人、摩訶迦葉と阿難陀(あなんだ)が安置されています。
天井には、小泉順作氏が、2002年に建仁寺の創立800年を記念して描いた 「双龍図」 が広がっています。
普通は、一匹だけ描かれるのが多いのですが、この天井の龍は、「阿吽の龍」 になっていました。

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おそらく生で見られれば、迫力に驚かれるのではないか? と思います。ぜひおすすめです。
法堂から本坊に戻ってきて、中庭の 「潮音庭」 を見て座っているとのんびりできます。外の気温は高いのですが、部屋の中は、ひんやりした感じです。

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そして 「○△□乃庭」 もあります。庭の中に、「○」「△」「□」の形を見つけることができます。その意味は、この単純な三つの図形が宇宙の根源的形態を示すとか?

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密教の六大思想 (地水火風空識)を、「○」=水、「△」=火、「□」=地
で象徴したものと言われているそうです。

また建仁寺では、曹洞宗の開祖、道元も六年間修行を積んだ寺と言うこともあり、境内に道元の足跡も残されています。
建仁寺は、お茶屋、割烹、料亭が立ち並ぶ、祇園のそばにあり、一度、立ち寄られることをおすすめします。

●建仁寺ホームページ
http://www.kenninji.jp/

今日も長々とお話しにお付き合いいただき、ありがとうございました。
パワスポ社長_感謝


祇園祭りの山鉾巡行は、なぜ八坂神社の前を通らないのか?

こんにちは~ ♬
売り切る仕掛人 匠(たくちゃん)です。

今日は、ご紹介していただいた「しあわせはどこにある」という映画が、京都シネマと三宮の映画館でしか、上映していなかったので、最近、いろいろなことがあって、映画を見て、こころの中をリセットして、祇園祭を目前に控えた京都の街を見て、こころを調和させたくて京都に向かいました。

IMG_7106ずばり京都!!
朝から暑い一日でしたが、祇園祭の山鉾巡行が、明後日ということもあって、四条通りの商店街や周辺では、祇園祭の「コンコンチキチン・・・♫」 という御囃子が流されていました。また通りには、山鉾が立ち並んでいました。
歩きながら、お囃子を耳にしているだけで、祇園さんのお祭りだなぁ?って、感じます。台風の予想進路図を、16日・17日に北上してくるので、天候が心配だなぁ?って思いました。

でも祇園祭って!!
ほんとうに相当な悪天候でも巡行は行う 「小雨決行、大雨強行」 という基本スタンスなので中止していない祭りなんですね。
過去の中止は・・・

●1467年(応仁元年)応仁の乱。
●1943年(昭和18年)太平洋戦争のため、4年間中止される。
●1962年(昭和37年)阪急地下鉄工事。

また山鉾巡行延期の過去の理由も、「本能寺の変」「禁門の変」「コレラの流行」 などの理由ということで、今回もきっと決行されるのでしょう。でもしっかり運営側、見物のお客様の安全確保は、しっかりしてほしいものです。

ふと思ったのですが、祇園祭って、八坂神社のお祭りなのに、
山鉾は、四条通りを東進して、四条河原町交差点で曲がって、河原町通りを北上していくのですが・・・今日のタイトルの

「なぜ山鉾巡行は、八坂神社のお祭りなのに、八坂神社前を通らないんだろう?」

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みなさんは、ご存知でしたでしょうか?
ふと私が感じたことなのですが、四条河原町の交差点から八坂神社までは、徒歩で、約15分くらいだと思うのですが、どうして八坂神社の交差点では曲がらず、四条河原町の交差点で曲がってしまうのか?

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これをネットで検索していると、結果がさっと出てきました。
祇園祭といえば、山鉾巡行が華やかなので、そちらに目がいってしまいます。実は、同じ日に 「神幸祭」 があることを知りました。
山鉾は本来、疫病等の災厄をもたらす疫神を鎮めるため、依り代(よりしろ)として鉾や山を作り、町中を回ったと考えられているようです。
鉦や笛、太鼓で囃すのは、荒ぶる疫神(怨霊)を鎮める目的だったようです。同日の夜に行われる神幸祭の神輿の渡御に先立って、都大路の清祓することを山鉾でされていたようです。
これに関しては、いろいろ諸説があるようで、どれがどうか? わかりませんが、神様が通られる前に、山鉾で清祓したとすれば、わかりやすいと思います。

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祇園祭のメインは、三基の「神輿」 となるのでしょうか?
神幸祭では、三基の神輿が八坂神社から出発して四条寺町にある御旅所に渡御されます。そして1週間後の7月24日に、「還幸祭」 といって、三基の神輿が八坂神社に戻られます。
たまたま八坂神社も立ち寄ったのですが、おそらく画像の神輿が、神幸祭・還幸祭で使われる神輿でないか? と思います。
四条寺町にある御旅所は、山鉾の設置場所より、八坂神社寄りにあるので、山鉾巡行は、八坂神社の三基の神輿が、御旅所に渡御される前に、祭神 【素戔嗚尊 (すさのをのみこと) ・櫛稲田姫命 (くしいなだひめのみこと) ・八柱御子神 (やはしらのみこがみ)】 の来訪のため の、いわばお清めのような役割を担っていると考えられている説もあります。

だから、山鉾巡行は、八坂神社の交差点まで行かず、四条河原町交差点で曲がるのでしょう。 とすれば、そこから先は、八坂神社の御神域になるということも想定されます。

とうことは、祇園祭のメインイベントは 「還幸祭」 ということになるのではないでしょうか? 私は、祇園祭 = 山鉾巡行とイメージしていました。 還幸祭は、神輿に、御旅所で、あらゆる災いを神輿に積んで、八坂神社に戻っていく。また時間があれば 「還幸祭」 にも足を運んでみたいと思います。

ひとつネットを見ていると、「八坂神社」と名前を変えたのは、明治維新の頃で、それまでは 「祇園社」「感神院」と呼ばれていたそうです。
ちょっと、これは勉強になりました。

●八坂神社ホームページ
http://www.yasaka-jinja.or.jp/

今日も長々とお話しにお付き合いいただきありがとうございました。
パワスポ社長_感謝


高野山・中門の廣目天、増長天の胸元に 「あれ?」

高野山と言えば、私はこころを落ち着けに、時々、行くのですが、今年は 「高野山開創1200年」 という記念年でもあるので、いつもの高野山とは、一変した風景でした。
と言いますと、観光バスで、駐車場がいっぱい。車の通行量も多い。
みんな・・・開創1200年記念を楽しみに来ておられるんだなぁ? って感じました。でもマナーだけは、守ってほしいなぁ? って感じました。

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今日は、何はさておき再建され、4月2日の開創大法会開白 中門落慶大曼荼羅供 <かいそうだいほうえかいびゃく ちゅうもんらっけいだいまんだらく> で披露された中門ですが、何も知らず行ったので、驚くことがあったので、そのことを記しておこうと思います。
大門が高野山全体の総門であるのに対して、壇上伽藍の門は中門と呼ばれています。創建は高野山開創期にさかのぼり、浄域である伽藍を結界する重要な門ということで、開創当時は、結界の意味が強い鳥居状のものであったそうです。
焼失と再建を繰り返しながら五間二階の楼門となったそうです。
江戸時代には、3回焼失したことが伝えられており、天保14(1843)年の大火により消失し、礎石のみを残していました。 今回の高野山開創1200年記念大法会に併せて、特別事業として壇上伽藍の中門が、172年ぶりに再建されました。

私は、金剛峰寺に立ち寄って、蛇腹道の方から歩いて、壇上伽藍・金堂を通って、中門の方に向かいました。 近くまで行くと、ヒノキのいい香りが、まだ漂っていて、周辺かおりに包まれいたので、とてもいい気持でした。
中門に近づき、四天王像をじっと見ていると・・・

● 廣目天の胸元に、セミ がとまっている?

「あれ?」

● 増長天の胸元には、トンボ がとまっている?

「なぜ?」

持国天、多聞天は、文政三年再建時のものだそうで、そのような彫りは、ありませんでした。
廣目天、増長天は、こわいくらい両眼をカッと見開き、憤怒の表情を漂わせているのですが、胸元を見ると「とんぼ」と「セミ」・・・ 「お茶目だなぁ?」 と思いながらも、どんな意味あるんだろうなぁ? と思ったので、ネットで記事を調べているときちんと説明されていました。

「今後千年以上にわたって、高野山を守り続けてほしい」 という願いを込めて、四天王像のうち、増長天と廣目天の両像を造立したのは、京都市におられる仏師の松本明慶(みょうけい)さん だそうです。

松本さんは、持国天、多聞天を造る際に、江戸時代の像と似たものを造らなければいけないのか?と高野山側に聞いたそうです。
返ってきた答えは 「口は出さないので、思う存分造ってほしい」ということだったそうです。飛鳥・天平以来、千数百年の伝統をもつ仏像制作の世界にあって、文化は進化していくというのが持論だそうで、「自らも現代の文化を担う一人」 という気構えで制作にあたったそうです。

「カエルを彫るときはカエルの人生まで考えて彫る」 という松本さん、彫り物に命を吹き込むながら、刻んでいるようで、すごい方だなぁ? って感じます。四方を守護する四天王像のそれぞれの役割に思いをめぐらせ、彫られたそうです。

1. 増長天

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増長天は、五穀豊穣・政治を司り、自分自身やや他の方の威徳を増長するなど、超人的な成長力をもって仏教を守護されているそうです。
槍を持って立っているのは、邪悪なものから守るためのようで、松本さんは、その象徴として、胸の甲冑にトンボをあしらったそうです。

「トンボは前にしか飛ばない。決して退却しないぞ、という強い意志を示したかった」 そうです。

2. 廣目天

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廣目天は、悪人を罰して仏心を起こさせることをつかさどるようですが、「通常ならざる目を持つ者」  といわれており、その意味は千里の遠くをも見通す者ということだそうです。
廣目天像の胸には、セミをとまらせてあります。
廣目天は、広く見渡すのが役目なので、どこまでも声が届くセミによって存在感を示し、「すべてを見ている」ことを表現したそうです。

という形で、それぞれ意味があり、四天王で、それぞれの方位に対して、いろいろな役割を持って、守っておられることが、少しだけわかりました。

1000年後高野山って、どうなっているのかな?

という思いを抱きながら、また高野山に行きたいと思います。
今日も長々とお話しにお付き合いいただきありがとうございました。

パワスポ社長_感謝

 


夏越の祓の「水無月」って、和菓子は、なぜ三角形なの?

今週で、6月も終わりですね。
6月30日ごろに、日本各地の神社で、半年分のケガレを落とし、今年後半の半年の健康と厄除けを祈願する行事があります。これを 夏越の祓(なごしのはらえ) といいます。
奈良県桜井市の大神神社でも、「夏越祭」ということで、6月30日〜7月5日まで、茅の輪を設置して、展開されるそうです。

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土曜日に、仕事で大神神社の近くを通りかかったので、大神神社に立ち寄りました。大神神社は、私のfacebookでも何度も登場していますが、日本最古の神社といわれ、本殿を持たず、三輪山そのものをご神体としています。画像の二の鳥居の前、かなり離れたところに大きな大きな大鳥居があります。
二の鳥居で一礼して、鳥居をくぐっていくと、両側を原始林に囲まれた道を歩いて行きます。この道を、歩いていくと、空気もひんやりしていて、植物で空気が浄化され、澄んでいますので、ほんとうに気持ちよくなります。
ふと考えてみると、出雲大社、下鴨神社などは、このような道が、あるなぁ? と感じました。歩いているだけで、煩悩から解放されるような感じです。

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歩き進んでいくと、拝殿が見えてきます。
歩んでいくと、鳥居の向こう拝殿の前に、大きな茅の輪が設置されているのが見えました。
よく考えれば、昨年も同時期くらいに、大神神社に参拝させていただいたような・・・ ?
この茅の輪について、神社の説明看板には、「日々の生活の中で、知らず知らずのうちに心身についた罪ケガレを、茅の輪をくぐることにより、祓い清め、無病息災を祈る神事です。『三輪大明神縁起』に『杉、松、榊の三木は神霊の宿り給う霊木である』と記されています。故実に因んで、三霊木をかかげた茅の輪をかかげた茅の輪くぐりをご祈念して下さい。」 と説明されていました。
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夏越の祓には、3つの心身を清めて厄落とし、そして健康で、今年の後半戦に向かう方法がありましたので、ご紹介しておきます。

 

1. 茅の輪くぐり

この茅の輪くぐりの行われる6月の「夏越の祓」そして年末には「年末の祓」があります。この二つは、対になる行事のようで、心身を清めて、お盆、そして新年を迎えるためのモノで、大切な節目です。
厄落としの方法として 「茅の輪くぐり」 が行われてきたそうです。
この茅の輪くぐりは、8の字を書くようにそれぞれの輪をくぐり抜けます。

2. 人形(ひとがた)を流して厄落とし

神社のお守りなどを授けていただけるところに、一緒に置いてあるのですが、 人形とは何? って感じると思いますが、人の形を模した紙の形代(かたしろ)のこと です。この人形に自分の名前や年齢を書き、その書いた人形でカラダを撫でたりして、人形に罪やケガレを移し、身代わりとして神社に納めます。神社では、人形を川に流したり、篝火を焚いたりします。 火や水を使う神事で清め、厄を落とします。

3. 「水無月」を食べて厄落とし

買物で、和菓子コーナーに行くと、6月中旬くらいから、「水無月」という京都の和菓子が広がっています。
この水無月について調べてみると、昔は、冷房も冷蔵庫もなく、蒸し暑くなる7月は、しばしば病気が流行りました。暑さで、体力も消耗するので、甘く食べやすいお菓子でエネルギーを補給し、厄祓いをしていたようです。
この水無月という和菓子は、ういろうの上に、邪気を祓うあずきがのった三角形のお菓子です。 この三角形は、削りたての氷 を表しているそうです。
昔、宮中では旧暦の6月1日に「氷の節句」が行われていたそうです。冬にできた氷を 山間の氷室 (ひむろ) に貯蔵しておき、そこから 取り寄せた氷を口にして、夏を健康に過ごせるよう祈る という行事があったそうです。
ただ庶民にとっては、 氷は高嶺の花。
そこで 氷をかたどった三角形の生地に厄除けの小豆を散らしたお菓子が作られたそうです。 それが水無月です。
水無月は、昔の庶民の氷へのあこがれからできたもの だったのです。

今日も長々とお付き合いいただきありがとうございました。
6月30日は、水無月で厄祓いして、後半戦に臨みたいものです。

パワスポ社長_感謝


後白河上皇のお手植えと伝えられる大きな御神木クスノキの新熊野神社

今日は、私のfacebookでも、以前二回くらいお話しさせていただいた京都東山の「新熊野神社 (いまくまのじんじゃ)」の話しですが、アップするように書き上げようと思っていたのが、やっと手をつけてアップできる時間が、数分ですが、時間を作れそうです。

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今熊野神社は、東大路通り沿いにあります。
目印は、道路の空を隠すように大きく枝が広がっている大きなクスノキです。後白河上皇のお手植えされたと伝えられる大きな御神木で、高さ19m、周囲6mと言われる巨木です。

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このクスノキを見るとすごいパワーを感じます。
このクスノキは、今から約830年前に、草創の砌(みぎり)として、後白河上皇は、紀州熊野から土砂、材木などをこの地に運び、熊野になぞらえて、新熊野神社を創建されたそうです。
熊野より移植、 国家鎮護と万民福祉とをご請願され、お手植えされたのが、このクスノキだそうです。
また熊野の神々がご降臨になる 「影向(ようごう)のクスノキ」 といい、 健康長寿、 病魔退散時に上皇が常にお腹を煩っておられたところから 「お腹の神様」 と信仰され、人々から

「大樟(くすのき)大権現」

尊崇されているそうです。そんなクスノキに迎えられ入っていくと・・・
奥の方に、「京の熊野古道」なるものや、絵馬には八咫烏(やたがらす)が描かれています。
そしてクスノキと同じように奥の方に「梛(なぎ)」の木が多く植えられています。その中でも昭和55年に成人式を挙げられた浩宮殿下が、参拝された際に、樹齢20年の「梛の木」を植樹されたそうです。

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新熊野神社は、古来 「梛の宮」 ともいわれていたそうです。梛は、雌雄異株で、葉は多くの縦脈からなり、容易に切れにくいため、 緑むすびの樹 といわれ、また実は二つ並んで仲良く実るところから、 夫婦円満の目出度い樹 とされているそうです。
梛は、 「罪穢(つみけがれ)」・「災禍(わざわい」・「病魔」 などをナギはらう霊験がある と信じられ、熊野詣でなどには、 道中安全のお守りとしたそうです。またナギは、朝凪・夕凪のナギから 安全・無事を守り、平和と幸福を招来する霊樹 といわれています。

そんな樹が境内にたくさん植えられているので、この新熊野神社を訪れると、まずクスノキのパワーと、梛の木の霊験で、こころ洗われる感じがします。ほんとうにおすすめのスポットだと思います。

やっと新熊野神社のことが記せました。
パワスポ社長_感謝

 


冥土通い井戸のある京都・六道珍皇寺

今日から「京奈和こんなとこ」は、パワスポ社長 BLOGに移行させていただきました。過去の記事も順次、移行させていただきますので、今後もよろしくお願いします。
この「京滋こんなとこ」含め、「京奈和こんなとこ」は、私が、神社仏閣や地域の隠れた銘産品を少しでも記しておきたいという思いから始めました。特にパワースポットは、大好きで私のfacebookページには、過去、行ったパワースポットを紹介させていただいていますので、またよければ見てやって下さい。

● https://www.facebook.com/itoh01

本日は、冥土への入口、出口、閻魔庁に行き帰した 小野篁(おののたかむら) の伝説も残っているお寺。
脇堂に、閻魔大王像がどーんと安置されている六道珍皇寺のお話しでも記しておきたいと思います。もちろん冥土とつながっているので、すごいパワーだと思います。

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小野篁は、歴史の授業でも学んだ 遣隋使・小野妹子の子孫 で、一説には 小野小町 の父親とか祖父ともいわれています。
この小野篁は平安初期の官人で歌人、しかも武芸に秀でていた。また当時、貴族内では、鬼才と呼ばれていたそうです。

この六道珍皇寺の奥には 「冥土の通い井戸」 なるものがあります。

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この井戸を使って、小野篁が 冥府の閻魔庁 に行き来したという伝えが残されています。 過去に冥府からの帰路に使ったという井戸は、嵯峨大覚寺南に残っていたと伝えられ、鳥辺野と嵯峨の化野はともに葬送地であったことからこんな話が残っていたのかもしれません。
「黄泉がえりの井戸」 (出口)は、(平成23年のお盆頃、旧境内地より発見) 画像のように入口の奥に、ひっそり残っています。井戸の中には、LEDライトが入っているので、入口に対してきれいなのですが、幻想的なイメージをかもしだしています。

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8月7・8・9・10日の四日間は、冥土にも届くという 「迎え鐘」 を撞いて、先祖の亡魂・精霊を迎える 「六道まいり」 の行事でにぎわいます。 この六道参りに撞かれる 「迎え鐘」 は、慶俊僧都が作らせたもので、ある時、僧都が唐に赴くとき、この鐘を三年間 鐘楼下の地中に埋めて置くように寺僧に命じて旅立たれたそうで、寺僧は待ちきれず、一年半ばかりで掘り出して鐘をついたところ、はるか唐の僧都のところまで聞こえ、僧都は「あの鐘は三年間地中に埋めておけば、その後は人手を要せず、六時(むつどき)になると自然に鳴るのに、惜しいことをしてくれた」とたいへん残念がったと伝えられています。
そんな鐘ですから、その音響が十万億土の冥土へもとどき、亡者はその響きに応じて 「黄泉がえりの井戸」 よりこの世に蘇るだろうと信じられ、お盆には時空を超える鐘となり、悠久の都に響く。
こうした 「精霊迎え」 の信仰と風俗は、室町時代以降とのことで、江戸時代から盛んにおこなわれ、現在でも祖先崇拝のもっともうるわしい行事として、お盆になればニュースでも流されています。

●六道珍皇寺ホームページ
 http://www.rokudou.jp/

この辺りは、昔、葬送地であったこともあり、縁につながる話がお寺に多く残されています。次回は、パワーあふれる今熊野神社の話しでも・・・!!

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パワスポ社長_感謝