高野山・金剛峰寺で阿字観を体験したり、比叡山・延暦寺で、座禅を組んだりした経験をしました。瞑想や座禅などをしたりするとよくわかるのですが、いろいろな思いが、こころの中で浮かんでは消え、また浮かんでは消えしていきます。ほんとうにいろいろな思いが、走馬灯のように流れていきます。
今日は、そんなことを記しておこうと思います。
どんな方でも同じだと思いますが、こころの中を整理して、掃除してみようと思ったことはあるでしょうか? きっとそんな必要はないと思われる方が大半なのではないでしょうか?
でも瞑想や座禅を組んだりするとしないといけないなぁ? ってわかると思います。
先日の延暦寺の座禅体験では、 「こころを止めてみましょう」 という表現をされていました。やはり修行なされている方やレベルの高い経営者の方は、雑念というか? こころに芽ばえてくる雑草をきちんと処理されているので 「無」 の境地に入っていかれて、こころを止めることができるのかな?って思いますが、私のレベルでは、なかなか難しいものです。
「こころは、創造するモノ」
「こころは、創造すること」が仕事なのですから、モノごとが雑草のように生えてきて、ひとつを摘まんでも取っても、また別の草が生えてきて、摘まんで取ることの繰り返しです。
実際、瞑想や座禅をしていて、こころと対話する時間を設けると、よくこれだけ浮かんでくるものだと自分自身のこころに驚きます。
ただ自分が、目標としていることへの 「芽」 なら、そこから肥料を与えるつもりでフォーカスして、膨らませていけばいいわけです。
その他の目標と無関係な不要な雑草の芽は、逆に摘まんで取って、伸びないようにしておけばいいのです。
やはりこころの中って、庭と同じで、ほったらかしでは、荒れ放題で、草もどんどん芽を出して、伸び放題の状態だと思います。
よく 「雑草魂」 って言われますが、ほんとうにしっかり根を張って、強いものです。こころという庭にしても、雑草を整理して、掃除していかないと本来、自分が見たかった風景、自分が育てたかった花が見えないまったく違った見え方になります。
また自分が、本来、目的として歩んでいきたい方向が見えなくなってしまいます。
こころの中を掃除して、誤った考え方、不純な思いを摘まんで取り除いて、自分の進んでいきたい思い、正しい考え、清らかな考えの花が伸びて咲くように、整理していかなければなりません。
だって、自分の考えと違う芽が伸びて、本来、伸びてほしい芽が伸びなければ、人生は、違ったものに進んでいくと思います。
先日からお話しを続けている 「原因」と「結果」 も違ったものとなり、自分が描いている人生の夢や目標とは、異なった形になってしまいます。
まず自分を知る → そして目標に向けて踏み出す。
そうすれば最良方向に、歩んでいけると思います。
今日も長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。