高野山と言えば、私はこころを落ち着けに、時々、行くのですが、今年は 「高野山開創1200年」 という記念年でもあるので、いつもの高野山とは、一変した風景でした。
と言いますと、観光バスで、駐車場がいっぱい。車の通行量も多い。
みんな・・・開創1200年記念を楽しみに来ておられるんだなぁ? って感じました。でもマナーだけは、守ってほしいなぁ? って感じました。
今日は、何はさておき再建され、4月2日の開創大法会開白 中門落慶大曼荼羅供 <かいそうだいほうえかいびゃく ちゅうもんらっけいだいまんだらく> で披露された中門ですが、何も知らず行ったので、驚くことがあったので、そのことを記しておこうと思います。
大門が高野山全体の総門であるのに対して、壇上伽藍の門は中門と呼ばれています。創建は高野山開創期にさかのぼり、浄域である伽藍を結界する重要な門ということで、開創当時は、結界の意味が強い鳥居状のものであったそうです。
焼失と再建を繰り返しながら五間二階の楼門となったそうです。
江戸時代には、3回焼失したことが伝えられており、天保14(1843)年の大火により消失し、礎石のみを残していました。 今回の高野山開創1200年記念大法会に併せて、特別事業として壇上伽藍の中門が、172年ぶりに再建されました。
私は、金剛峰寺に立ち寄って、蛇腹道の方から歩いて、壇上伽藍・金堂を通って、中門の方に向かいました。 近くまで行くと、ヒノキのいい香りが、まだ漂っていて、周辺かおりに包まれいたので、とてもいい気持でした。
中門に近づき、四天王像をじっと見ていると・・・
● 廣目天の胸元に、セミ がとまっている?
「あれ?」
● 増長天の胸元には、トンボ がとまっている?
「なぜ?」
持国天、多聞天は、文政三年再建時のものだそうで、そのような彫りは、ありませんでした。
廣目天、増長天は、こわいくらい両眼をカッと見開き、憤怒の表情を漂わせているのですが、胸元を見ると「とんぼ」と「セミ」・・・ 「お茶目だなぁ?」 と思いながらも、どんな意味あるんだろうなぁ? と思ったので、ネットで記事を調べているときちんと説明されていました。
「今後千年以上にわたって、高野山を守り続けてほしい」 という願いを込めて、四天王像のうち、増長天と廣目天の両像を造立したのは、京都市におられる仏師の松本明慶(みょうけい)さん だそうです。
松本さんは、持国天、多聞天を造る際に、江戸時代の像と似たものを造らなければいけないのか?と高野山側に聞いたそうです。
返ってきた答えは 「口は出さないので、思う存分造ってほしい」ということだったそうです。飛鳥・天平以来、千数百年の伝統をもつ仏像制作の世界にあって、文化は進化していくというのが持論だそうで、「自らも現代の文化を担う一人」 という気構えで制作にあたったそうです。
「カエルを彫るときはカエルの人生まで考えて彫る」 という松本さん、彫り物に命を吹き込むながら、刻んでいるようで、すごい方だなぁ? って感じます。四方を守護する四天王像のそれぞれの役割に思いをめぐらせ、彫られたそうです。
1. 増長天
増長天は、五穀豊穣・政治を司り、自分自身やや他の方の威徳を増長するなど、超人的な成長力をもって仏教を守護されているそうです。
槍を持って立っているのは、邪悪なものから守るためのようで、松本さんは、その象徴として、胸の甲冑にトンボをあしらったそうです。
「トンボは前にしか飛ばない。決して退却しないぞ、という強い意志を示したかった」 そうです。
2. 廣目天
廣目天は、悪人を罰して仏心を起こさせることをつかさどるようですが、「通常ならざる目を持つ者」 といわれており、その意味は千里の遠くをも見通す者ということだそうです。
廣目天像の胸には、セミをとまらせてあります。
廣目天は、広く見渡すのが役目なので、どこまでも声が届くセミによって存在感を示し、「すべてを見ている」ことを表現したそうです。
という形で、それぞれ意味があり、四天王で、それぞれの方位に対して、いろいろな役割を持って、守っておられることが、少しだけわかりました。
1000年後高野山って、どうなっているのかな?
という思いを抱きながら、また高野山に行きたいと思います。
今日も長々とお話しにお付き合いいただきありがとうございました。